桜川のサクラとは

茨城県桜川市(岩瀬地区)にある「桜川のサクラ」は、古来より「西の吉野、東の桜川」と並び称されるほどのサクラ(山桜)の名所でした。千年の歴史を誇る「桜川のサクラ」の史乗を、時代毎に解説します。

桜川のサクラ ~平安時代~

現存する記録の中で最も古い記述は、平安時代に遡ります。歌聖紀貫之(872-945)が「常よりも春辺になれば桜川 波の花こそ間なく寄すらめ」(後撰和歌集)と詠んだのは、まさに名勝「桜川」のことです。残念ながら、紀貫之自身は桜川を訪れてはいませんが、東国の桜川の評判が遠く平安京の都人にまで届いていた証しでもあります。

桜川のサクラ ~室町時代~

室町時代には、当時の櫻川磯部稲村神社の宮司が、時の関東公方足利持氏に花見噺「桜児物語」を献上、これを基に、時の将軍足利義教が幽玄能の大家世阿弥元清に作らせた謡曲「桜川」の舞台となりました。

桜川のサクラ ~江戸時代~

江戸時代になると、水戸黄門として有名な水戸光圀公や笠間藩主牧野貞喜(さだはる)公なども度々桜川の地を訪れ、サクラを愛でたという記録が残されています。


特に水戸光圀公は、偕楽園前を流れる小川(見川川)のほとりに桜川のサクラを移植し、その川を「桜川」と名付けてしまうほど「桜川のサクラ」がお気に入りだったそうです。
※「櫻川遺蹟碑」(桜川遺跡碑)が、水戸市の桜川団地と桜川西団地の間を流れる桜川の傍らにある桜川団地橋児童公園に建っています。碑文が書かれたのは大正6年(1917)のことです。

その後も、四代将軍家綱の隅田川堤への移植、八代将軍吉宗の玉川上水堤への移植をはじめ、江戸の花見の名所づくりに「桜川のサクラ」が大量に移植されています。(現隅田公園の「墨堤植桜の碑」や、玉川上水沿い「小金井桜樹碑」に桜川のサクラの記述が見られます)

4代将軍徳川家綱が常州桜川(現桜市岩瀬地区)の桜を植えさせたことが始まりとの表記が伺える

小金井堤の桜の縁起を辿ると「吉野桜50本と桜川の桜50本が交互に植えられた」とあり、この事実を見ても当時の「桜川のサクラ」の評判が伺えます。 (※「桜川のサクラ」関連資料内『名勝小金井桜』の項参照)

桜川のサクラ ~明治時代~

明治時代になると、当町出身の俳人で文学者である石倉翠葉(重継)氏が、当時衰退の危機にあった「桜川のサクラ」を再興しようと、弱冠20 歳にして『櫻川事蹟考』を出版。「桜川のサクラ」の顕揚に尽力されました。 (※「桜川のサクラ」関連資料内『櫻川事蹟考』の項参照)

桜川のサクラ ~大正時代~

石倉翠葉氏による『櫻川事蹟考』の出版と、そのための調査が礎となり、大正時代になると史跡名勝天然記念物調査員として、帝国大学(現東京大学)の教授であり、植物学者で“桜博士”と呼ばれる三好学氏が当地の
調査に訪れます。桜川には大変貴重な桜が多いことから、大正13年「名 勝桜川」として国の指定を受けることとなります。 (※「桜川のサクラ」関連資料内『櫻川事蹟考』の項参照)

三好博士はこのとき、山桜の中でも学術的に非常に貴重な11種を選んで名をつけ、これを自身の出版した『櫻花図譜』に掲載しています。

大正10年発行の「櫻花図譜」(解説本「櫻花概説」がセット)資料提供:櫻川磯部稲村神社

この11種類を含めた「桜川のサクラ」は、昭和49年に国指定「天然記念物」にもなっています(「三好学命名桜川のサクラ11種」参照)

桜川のサクラ ~現在~

名勝指定地である櫻川磯部稲村神社参道~馬場付近は、指定後しばらくは大勢の花見客で賑わうようになりました。しかし、花見の時期になると近隣の芸者衆がすべてここに集まったと言われるように、徐々に風紀が乱れ、客の取り合いや芸者の取り合いといった騒ぎが頻繁に起きるようになります。


こんなことから「磯部の花見は“喧嘩花見”」との悪評が立つようになり、一般の花見客からは敬遠されるようになっていきます。また、大勢の花見客が訪れることにより、桜の根が長時間にわたって踏みつけられたり、枝を折られたりすることで徐々に樹勢は弱り、花見客を敬遠するようになった地元の人たちの感情もあって、管理も疎かになると、桜は更に衰弱していきます。


明治以後、ソメイヨシノの群植による花見の名所があちこちに作られるようになると、一斉に咲き一斉に散るその圧倒的な桜の景観が花見の主流となり、山桜である「桜川のサクラ」の花見客は激減してしまいました。いよいよ桜川のサクラも存亡の危機に瀕するに当たり、これを憂いた人たちの助言により、昭和49年に桜の保護を目的に国の「天然記念物」として指定を受けることになります。

その後、昭和54年には国指定の名勝地を新たに造成し、都市公園としての拡張整備が計画されると、翌55年から6年をかけ昭和61年に、総工費3億円、面積44,000㎡(うち名勝指定地7.000㎡の「磯部桜川公園」が完成しました。

しかし、残念なことに、都市公園として整備はされたものの、その後も桜に対しての十分な管理は行われておらず、密植による生育の悪さなどから枯死したり病気にかかっている桜が多数放置された状態となっています。


近隣にもソメイヨシノや八重桜など、園芸品種の桜を群植したお花見スポットがいくつも出来たこともあり、樹勢の弱った山桜が主体の公園は、今では桜の時期にも地元の人すら訪れなくなってしまいました。

日本でも最古の桜の名所として千年を超える歴史を持つ由緒あるこのサクラが、地元の人たちからも忘れ去られようとしているのは非常に残念なことです。

サ ク ラ サ ク 里 プ ロ ジ ェ ク ト

こういった現状を知り、この山桜を見直そう、保護・育成し後世に残していこうと動き出した団体があります。平成17年(2005年)桜川市岩瀬商工会青年部の有志で設立された「サクラサク里プロジェクト」です。


山桜の保護育成と共に、開花期間中の調査観察、ガイドボランティア、地元小中学校等での講師活動の他、この「桜川のサクラ」を地域活性化に結びつけるため、オリジナルの商品を開発販売し、売り上げの一部を桜の保護育成に還元しています。


活動はプロジェクト以外にも広がり、平成19年には(財)日本花の会桜川支部が同財団の全国26番目の支部として設立されました(現「桜川日本花の会」会員数41名) 現在は同会の他、高峯のある平沢地区の住民や、「MTB高峯」の運営者など仲間の輪が拡がっています。